昭和42年06月23日 月例祭



 唄の文句にこんなのが御座いますですね、鳥ならば飛んで行きたい、あの家の屋根に木の実、茅の実食べて鳴く。こがれて鳴く声聞かせたら、よもや嫌とは云われまい。鴨緑江節です。昔の本当に鳥ならば飛んででも行きたいと、そういう例えば不可能を可能にするのが信心なんですそれには矢張り修行がいる。それこそ木の実、茅の実食べてでもという私は修行精神が必要だと思う、同時に金光様、金光様という。
 それこそ一日会わなければ千日の思い、千日会わない思いと云う様に、ひとつ憧れの念と言う物がです神様へ向けられる。それこそこがれて鳴く声を聞かせたらと云う事である。例えばここに一本のビールがある。冷たく冷やして、ここへ出されておるのだけれども、さあコップもあるけれども飲まれない。栓抜きがない、何か手が油か何かで汚れている、どんなに洗っても落ちない、けれども石鹸を付けると簡単に落ちる、私は信心おかげと云うのは、そんなもんだと思うです。
 自分ではどうにも出来ない、自分ではどうバタバタしても出来ない事がです。神様にお願いをし、お取次を頂かして貰うてです、それこそそのあっても、そのビールが飲めないものが、お取次によって、王冠を抜いで貰う様に、落ちなかった言わば油手が、石鹸を付けたらすきっとこう落ちたと言う様にです。教えを頂きますと、どうにも落としようもなかった、垢が落ちて行くのです。
 そういう例えはいくらでもありましょう。ここに美味しい缶詰があるというても、あっただけは、あのままかじる訳にはいかんでしょうもんね。缶切りがあったら簡単な事なんだけれども、信心とはそんなもんだと思う。お取次を頂くと云う事は、そういう事だと思う。今日朝、御祈念のすぐ後でした。福岡の高橋さんとこの支店が、新天町にございます「いづ定」という立派なお店です。
 そちらの責任者というか責任を持っておられる女中さんが、同じお店の方を一緒に同道して、早うから参ってみえました。それがどうでも是は椛目の先生に一つお願いをして貰い、どうさして頂いたらよいか、お伺いしなければ出来ないと云う問題があったので。千代町の方の若大将にお話をしたんだけれども、高橋さんにお話したんだけれども、今夜なら参るけれども今日は朝からは参らん。とにかくあの椛目にお参りしてから、いわゆる合楽にお参りしなさいと云う事で二人で参ってみえたんです。
 それは聞けば聞く程大変難儀な問題である。本当にまたこんがらがった問題でもある。三角関係の様な感じの感じじゃない、まあ三角関係の問題である。いや四角関係位の問題である。その相手の方がです、大変なそのお酒飲みだそうです。もう飲んだら虎狼も辞せんといういわゆる酒乱なんです。酒を飲んだら乱れるその人がです福岡に愛宕山と言う所があります、願掛けのお宮昔から有名なお宮さんです、姪ノ浜のちょっと手前私の修行の地でもある、愛宕下というのはその上に愛宕山と云うのが御座いました。
 そこにその願をかけておられる、お酒を飲みません、十年間掛けておられる内に、七年間だけは辛抱した。所が七年目に願を破ったと言う訳なんです。それでその事をお詫びに行った所がそれでは、保証人を連れて来いと云われる。今度破ったらあんたもバチかぶるが、その代わり保証人もバチかぶらんならん、だからそういう保証人に立ってもよかじゃろかと言う様なお伺いじゃった。
 様々な神様が御座いますですね。それがやっぱり真剣なんですよね、怖い、相手が神様ですから、是はまだまあ云うなら枝くらいのもんのお届けでした、それがもっともっと深刻な問題があったんです。けどもそりゃお話申しませんけれどもです、そう言う様な私はお取次さして頂きよりましたら、実はですね、先生こちらへ参ります自動車の中で、タクシーで今日は来てあります。
 その福岡から久留米の先生の合楽と云う所に、合楽の金光様にお参りするんだとこうその云うたんです。所がその運転手さんがああ金光様ですか、と言う訳なんです金光様を知ってるんです。そしてその聞かず語りにですね、話します事が、どういう事かと云うと、実は私も金光様には大変な縁があるんだ。いや縁があるんじゃない、大変な御助けを頂いておる神様だとこう言う。実は私はですね、モヒ中毒患者であった。ですからもうあれが切れて来ると、もうそれこそ狂乱状態、そこで近所のある熱心な、御道の御信者さんが、どうでもひとつ金光様にお縋りをさして頂いて、おかげを頂きなさい。
 私が明日から、御本部参拝をするから、あなたを連れて行くと云うて、もう強引にそれこそ、引っ張られる様にしてから、御本部参拝した。汽車の間はまだよかったけれども、あすこへ着く頃になったら、そのとう薬が切れて来た。もうどうにもこうにも、もてんごとなったから、そこんとこを私、詳しく聞きませんでしたけれども、まあ病院なら病院でしょうか、薬局なら薬局でしょうか。に飛び込んで、それをその注射するか、まあ飲むかしたのでしょう。
 ところが不思議なこつですね、金光様のそのおかげの、あらたかなこつと云うたら、もう驚いた。私はもう、それっきりその注射をしなくて済む様になったと云う話を、自動車の中でした。二人とも顔を見合わせてから驚いた。私も今日は似たり寄ったりの、お願いを合楽にやらせて頂きよるのじゃが、それこそそんなに怖い神様、願をかけておったその願が、言わば成就しなかったらバチかぶる。
 そこで誰か保証人になった者を連れて行って、お詫びしなければならんと言う様な。まあ云うならそういう信仰は、私はないと思うんだけれども、信仰の中にはけれどもやっぱりあるんです。ある事は。そこで私共は、真の信心と云う事を云われるのですけれども、真の信心さして頂いて、おかげを頂いて行くと云う事は、その様な物ではないと云う事。そういうあらたかな話を聞かせて頂いたのであるから、そのご主人になると言う方を是非いっぺんお導きして連れていらっしゃいと云うてからお話した。
 すると保証人も立たんでよいしだけではない。例えばそれが好きな酒ならば、飲みながらでもおかげの頂けれる道があるのだと云う事を話した。しかし不思議な事ですね。神様の救いの手が掛かるとそういう働きがあるんですよ。聞きもしないのに、そのタクシーの運転手さんがですね、福岡からここへ参ります間に、そう云う様な話をしてくれた。どうにも出来ない缶詰があった。
 是を食べたいんだけれども、食べようがない、缶詰をかじってみたけれどもどうもダメなんです。どうにも出来ないとさじをなげるごとある。そこに一心を立てるとか、お導きのその真心というか、それが神様に通うときに。只今申します様なそれこそ、現代の医学でもどうにも仕方がない様な、言わばその難儀な問題がこうしておかげを受けておる。そのおかげを受けた人が現に自動車の中で、その事を話してくれた。
 それでまあ不思議な事じゃあると言う位な事でしたけれども、問題は保証人に立ってよいか悪いか伺う為だったんですけれども、そのご主人になる人をここへ、お導きさして頂くと云う事が、そういうおかげを頂ける事ならばと、云う事で今日は帰られたんです。自分の力やら知恵やらではどうにも出来ない事。云うならばもうさじを投げる様な事でも、信心しておかげを受けると云う事は不思議な事ではない。
 もし信心して、おかげが受けられないならば、それこそ不思議な事であるから、その不思議な所を検討して行、おかげを受けていかなければならない。けれどもそう云う様な意味あいの、おかげというのが、何時もかつもあると言う事じゃない。それこそ飛ぶ羽を持たんのですから、飛んで行ける様な、夢の様なおかげと言う物がです。何時もあるものではないけれども。
 それがです、何時も自在にいけれる、行きたい所にはいける、欲しいものは与えられる、人間本当に幸せになって行く事の為の一切物がです、与えられる所のおかげの道が信心の道なんです。ですからそういう信心の道をお互いが勉強さして頂かなきゃいけんのです。ただお取次を 頂いてお願いをした時、成る程そう云う様な働きがある事はあるけども、そう言う様な例えば思う所にいけたと言う事だけが幸せならです。
 それでいいかも知れません。けど油がです、石鹸を付けたら落ちたと、言う事だけがおかげならそれでいいです。缶詰を食べようと思うたら、缶切りがないから食べられなかったら、缶切りを買って来たら、簡単に食べられたと、その缶詰を食べられたという事だけが、幸せならそれだけでいいです。けどもそれだけではいけん所にで、す私は信心がいると、こう思うのです。
 昨日一昨日です、今日お祭りにここに奉仕してました、高瀬ひろ子という先生です。今年私と一緒に教師の資格を頂きました。ご承知でしょうが、ここに古賀先生と云う先生が修行しておりました。古賀先生の従兄弟になります人です。非常に若いときから信心が好き、同時に非常にこの何ともうしましょうかね、霊徳関係が優れておる、もう中学校時代から教会に裸足参りをする。 
 そう云う様な事が好きな人なんです。お話を頂く事が実に楽しい、神様からいろいろとそしてお知らせを頂く。ぜんぜん教会に生まれた訳でも何でもないのですけれども、教師志望で一年間修行に行かれて教師の資格を取って来た。そいよいよ取次の実際と、お徳を頂く為にしばらくここに修行さして頂きたいと云うので、今までおかげを頂いておった教会に、ご挨拶に行った。
 万野という先生、上熊本教会という教会。所がそこの先生が云われる事なんです、先生一年余り、合楽に修行さして頂きたいと思いますから、どうかひとつお許しを頂きます様にと言うてお願いをさして頂いた所が、ひろ子さん一年なんてん定めなさらんな、三年位みっちり修行さして頂いて、合楽の信心を本当に体得して、帰って来てから又、皆んなに教えてくれとこう云われた。
 私は大坪という先生に会うた事がないから分からんけれども、ある方がここの御理解のテープを買っていっておった。そのテープを再録した。またそれを写したのを自分が持っておる。私はそれを何時も聞かせて貰う。私が思う所ではです。あれ程の事がです、お話が出来る、あれ程の事が神様からお知らせを頂かれる。しかも神様に頂かれたあの事をです、あの様に教学的に説かれる先生は先ず日本国中探しても、今の教団の中にはおるまいと云われたとこういう。
 親子の者が昨日それをお届けするんです。私がそんなに素晴らしい先生とは思わないけれども、私が頂いておる事、是は素晴らしい事。最近皆さんは少し教学づいておりますから、勉強しよる。昨日も総代さんの秋山さんが出て参りましてから云われるんです。「先生、最近はあの教典をずっと読ませて頂きます。もう読ませて頂けば頂く程、椛目の信心の素晴らしさに驚いてしまいます。
 教祖があの様に簡単に説いておられる事をです、椛目ではその底の底まで、説き尽くしておられると言う様なものを、どの御教えの中からでも感ずることが出来ます」というお話でした。皆さん勉強なさらなきゃいけません。是は私が一概な事な云われないと思うんですけれども、教学者といわれる程しの方達の所ではです、不思議に人が助からないという事実があるのです。
 その親玉が云うなら、高橋正雄先生なんです。ありゃ沢山人が助かったと、いや助かったんですよね、あの人の教えに言わば、傾倒するんですから、皆んなが、けれどもですね、こういう難儀から救われたと、云うならば病気とか。間関係とか、経済問題とか、もう実際に先程から私が申します様にです、この缶詰が食べたいいんですが、どうしても食べられません。そんなら缶切りを貸してあげましょう。
 どう思うてもこの垢が落ちないのですが、ならこの石鹸を貸してあげましょうと、言う様なおかげになって表れていないと云う事なんです。御教えを非常に学問的に、それこそ聞きよっても頭が痛うなる程、難しい言葉を使われたお話などと言う物は、出来て参りますけれども、それによって実際に病人が助かると言った様なおかげになって来ない。教学をすればするほど、そういう傾向があるという事実がある事なんです。
 所が例えばなら椛目教学といわれ、大坪教学と云われ、私が説く所の教学はですその教学が深い事が分かって行けば行く程におかげが頂けると云う事実がある。そこにですね、私は神様が教えて下さる所の教学、人間の頭から生まれて来る教学と教学の云うなら、違うものがある事を皆さんがひとつよう分からして貰わにゃいけん。合楽に御縁を頂かして頂いて、この様な御理解を頂いておる、その様な御理解というものをです。
 四、五日前も日奈久という所の教会の先生がみえられました。とにかく、こちらへ来るだけでも、朝六時に出て、こちらへ昼着くのですから、五時間半かかる。云うなら御本部参拝する時間掛るのです。ですから、たんびにそのテープを十巻づつ位買っていかれます。もっとも出来るだけ自分もテープを持って来て、ここのを再録して帰られます。それをですね、三回よりも五回、五回よりも七回と、もう繰り返し聞かせて頂けば頂く程、おかげを受けると言っておられます。
 その御理解の内容が、段々深い所が分かって行く訳なんです。そういう例えばおかげに皆さんは日々頂ける所のおかげに恵まれておる。私の信心が素晴らしいという事じゃないけれども、御理解が素晴らしい神様に頂いておる。お取次さして頂いとるその内容が素晴らしい。だからその素晴らしいといい、内容といい、それをです皆さんのものにして行かなければです、おかげになって行かんのですよ。
 昨日一昨日でしたか秋永先生が御用でみえられました。とうとう朝から夕方まで御用頂いて帰られたんですけれども、その中に色々と話して頂いた。この三十日が六月三十日ですね大祓式、今まで椛目の時代はその大祓式というのは致しませんでしたけれども、考えれば考える程こりゃ、大祓式は大事だと云う事が分かって来た。現在の教団ではそれを大祓式とは呼ばなくなって来た。
 半年中の御礼の、お祭りという風に表現するけども、私はやっぱり大祓式だと思うんです。そりゃ、皆さんどうですか、お月次祭でも最近は、弊でこうやって祓うて頂く。私共はあれを祓うて頂く時にです、とう本当に四季のさやぎのさやさやと、その祝詞言葉にあります様にです、とうあの四季のさやぎを、頭の上で聞かして頂くだけでもです、とう本当に何かしらん、汚れが清められて行く様な気がいたします。汚れておった、お粗末御無礼がいっぱいだった。
 そのお粗末御無礼がです、いや罪汚れがです、あれによって払われた様な気が致します。皆さんどうですか、ですからお月次祭には、お祓いのある前に皆さんみえなきゃいけんです。今八時からお祭りがあっております。御霊様のおまつりは私は八時から仕えます。ですからとにかく、私はお繰り合わせしてからおかげ頂かにゃいかん。お祓いを受けにゃいかん。気持ちがいい、問題はその気持ちがね。
 おかげを頂く基になるのですよ。有り難い気持ちすがすがしい気持ち、その気持ちがおかげを頂くんです。真に有り難いと、思う心がすぐにみかげの初めと、その気持ち、信心とはその気持ちを、作って行く事なんですよ。すがすがしい気持ち、有り難い気持ちそれには改まりなさい、研きなさいと云う事に、内容的にはなって行くのであり、形の上にはです、御祈念さして頂いて、一生懸命拝まして頂いておるというだけでも、心は清まって行く様な気がする。
 お祓いを受けると云う事、その事でも私共は何とはなしにお粗末御無礼、汚れが一遍に払われる様な気がする。この気がする気がおかげを頂く基なんだから、だから私はこの三十日の大祓をいわゆる、合楽独特の大祓式にしたいとこう思う。言うなら半年中の罪汚れを払うて頂く。必ずこの人が立っている様な絵を描きましてね、皆んなも家族中の名前と歳を書いて、それを代表者がまあ、家族中で参って来る所もありますけれども、それを払うて頂くという式なんです。そういうおまつりなんです。
 そこで私は第一悪疫予防の祈願祭を、それに合わせたいと、是からはいよいよ又、いろんな良くない病気が流行って参ります。成る程大祓を受けときゃ、家族中の者がこんなにおかげが頂かれると云う事を、是は昔の話ですけれども、私の方の隣の叔母がひとつ話の様にして話しておりました。近所に悪い病気が流行ったんです。所が私の方と私の隣の私の父の兄弟なんですが、だけがですね、おかげを頂いてから免れた。
 もうそれこそ皆んな避病院にそれこそ出されたんですよ。私の子供の頃の事で覚えとります。所がですある夜隣の叔母が頂いたお夢がですね、私の方と隣の家の中をですね、もうお装束をつけた神様達が、こうやって手を継なぎ合うてからです、ずうっととり回しておられるというお夢を頂いた。この様にしてお守りを下さっておるぞというしるしを、いわゆる無学の叔母でも感じられる程のお夢を頂いた。
 おかげを頂いて家からは、自分達の信心をしておる、自分達の所だけはそういう、病気を出さんで済んだと云うて、喜んでおった話を私は覚えておる。大祓を受けさせて頂くと云う事が、どの様に有り難い事か、どの様に大事な事か、それは心が改まって、おかげを受けるというのではないけれども、それこそ形の上ででもです、それだけの言わば効果というか、そういうお徳に触れる事が出来ると云う事なんです。
 同時に私はもうそれこそ、皆さんが日々手を休める事も出来ない程に思うておられる、交通安全の大祈願祭を併せてしたいと思う。お互いが持っておる乗り物、単車、自転車は云うに及ばず自動車も一切それを私はここの駐車場いっぱいに集めて、そして大大祓式をですね敢行したい。もしそれに漏れるならばです、雛形を書いてきて、何と云う自動車、車体番号が何番という番号の自動車がというのをです。
 私は祓うて頂く儀式にです、お互いが参列さして頂いて、成程合楽のですね合楽のお広前で、お広前でお祓いを受けた事は、成る程おかげが頂けるんだと云うおかげをです、皆さんが頂いて貰わなければならない。そしてそれをこれ程沢山の大変な交通の難儀な中にあってです、そういう難儀から皆んな、がおかげを頂いていけると云う事を、お参りが出来なくても信心は出来なくても、只お祓いにお参りが出来たというだけでも、おかげが頂けれると云う位なおかげを、頂かせて貰わなきゃならんと私は思う。
 そういう意味での熱願を捧げてる式まであり、おまつりをさして頂きたいと思う。秋吉先生にそん時話を聞いたんですけれども、5台の自動車を持っておると、ひと月に一回事故があると云う統計が出ておる。それがです、そのパーセンテージが、ずっと縮められて来る。だからどうでんこうでん西鉄さんのごたるとば、お得意さんにせねばいかんととばい、と言うて笑い話ばした事です。
 何百台何千台と持って御座る、ああ云うバスの事故と云うのがどれだけあっておるか、何々神社から貰うよったお札の時にゃ、こげな是だけの事故があった合楽でお祓いを受ける様になったらそれが半分に減った、三分の一に減ったといわれるくらいな力が椛目にはまだある合楽にはある。私はそれを確信するです私はその事を一生懸命先生とこう話よりましたらですね、私の御心眼にこの位の菊の花の紋を頂いた菊の紋を。
 そしてあの紋には必ず輪が着いてますよね、その輪がこんな大きな輪を頂いた。云うならばです、まあだこれだけの枠を頂いておるんだけれども、実際椛目でおかげを受けておるのは、是だけだと云う事なんです。私の力にはまあだ、是だけの余分があると云う事なんだ。云うなら銀行からです、三千万なら三千万という借り入れる所の信用を頂いておるのに、まぁだ二千万円しか借りてない。
 もう一千万は借り入れられると云う事なんだ。借らにゃ馬鹿らしか神様に頂いておるのを十分に頂かねば馬鹿らしか。いや借らして頂いてこそ、それを頂かして頂いてからこそ、神様が喜んで下さるのだ。してみると皆さんはです、もっと私はこのお導きと云う事はもうしません。それを知らなかった。自分の力だけは知っておった。だからそげん力も無かつに、お導きばっかりしたっちゃ助からんならどうするの、というのが私の生き方であったけれども、そのお知らせを頂いてからはです。
 まぁだ是だけは、言わばまだ、余裕があるんだと、そうでしょうね。是だけのお広前をですね、頂いたんですから、まぁだ是にいっぱい積まれれるだけの人が助かられると云う事なんだ。是は私のおかげの受け物なんだ。それに真ん中にちょこっとばっかりこんな風にして集まっておるというのじゃなくてです、まぁ夏向きでええこたええんですよね。風が通ってから、けれどもです、段々おかげを頂かして頂いて、冷房完備と言った様なお広前が出来る様な、おかげを頂いたらいいじゃないですか。
 ですから只今私がもうしますようなおかげはです。今日私が申します、それはどうにも出来ない問題、人間の知恵、力じゃどうしても出来ない問題。第一その交通事故と言った様な物がです、人間の知恵、力じゃどうでも出来ない問題。それこそ缶詰は持っとるけれども、缶開けを持たないというのです。缶切りを借らして頂いて、それを頂く様な。ビールはあるけれども、栓抜きがないから栓抜きを借らして頂く、おかげを頂く様なおかげに類するかもしれませんね。
 大祓式のおかげというのは。けれどもそういう、おかげでもいいじゃないか、そこから神様のいよいよ有り難いと、云う事が分からして頂いて、私が一番始めに申しました様に、唄の文句じゃないですけれども、鳥ならば飛んでいきたいあの家の屋根に、木ノ実、芽の実食べてでも、こがれて鳴く声聞かせたら、よもや嫌とは仰るまい。と言う様にです私共が本当に、本当に鳥ならばあそこ迄でも飛んで行きたい、と言う様な事があるんだと。 自分に適わん事とは思いながらも、どうでも是だけは必要だ。
 是があるならばと思う様な事があるんだ。そういうおかげを本当に、何時もそれこそ必要な物が、必要に応じておかげの頂けれる所のおかげを頂かして頂く為に、それこそ木ノ実、茅の実食べてでも、という私は修行精神と言う物が必要であると云う事と同時に、それこそこがれて鳴く声という。とにかく一日お参りしなかったら、もうとにかく淋しゅうて堪らないと云う位なです。
 合楽に対する所の、神様に対する所の憧念心というものが、いよいよ募って行くおかげを頂かして貰うたらです。それがもう平常、何時もが安心、何時もが喜び、何時もが。
 人間幸せになって行く一切の物が許され、与えられると言う様な、おかげの世界と言う物が、展開して来るおかげを願わなければ、ならないけれども、私は今度の大祓式は皆さんだけではない。
 信心のシの字も無い様な人でも、交通事故からもし守られるならば、という願いを持たない人はあるまい。そういう人達を縁に任せてです。ここの駐車場いっぱいに自動車をいっぱいこたいらんけれど、もっといっぱいでもいいけれど、本当に弊のさやぎをもって、さやさやと吹き払わして頂けれる様なです。おかげを頂きたいと私は思うておる、そういう意味あいで皆さんどうぞ、隣近所は云うに及ばず。
 そういう式が合楽のお広前で今度あると云う事を伝えられて、一緒におかげを頂いてほしい。まぁだ印刷のそう言う物が出来ておりませんけれども、そう云う事があると云う事だけは、ひとつ心において頂かなければなりません。今月の三十日の事で御座いますからもうすぐの事ですから、ですから時間は親教会が午前中に御座います関係で、ここを一時からにしたいと思います。
 一時からのお祀りにしたいと思うんです。どうぞそういうお祀りに皆さんがおかげ蒙られて、いわゆる教会にお許しを頂いた、お広前としてのそういう祭典行事の中にでも、只大祓式をせんならんけんするというのじゃなくてです、矢張り、私流というか、矢張りひとつの個性を持ったお祀りにしたい。是はもう合楽に行かなければ出来ないと、言う様なおかげのお祀りにしたいと思うので御座います。
   どうぞよろしゅうご協力をお願い致します。